衛星写真で見てみましょう。日本は、7000弱の島々が線状に連なる島嶼国です。しかも、国土の約7割は山岳地帯で、森林に覆われています。この地勢的な特徴は、人口の分布や密度、交通網の張りめぐらされ方などに大きく影響をおよぼしています。ヒトからヒトへとうつる感染症の流行パターンも、当然、それらと相関します。
今回のCOVID-19の流行でも、感染者数や死者数には、地域間で大きな差があります。4月20日現在、感染判明者(PCR検査陽性者)は全国で1万名を超え、死者も171名を数えますが、他方で、いまだ感染判明者を一人もださない岩手県のような地域も存在します。感染症の流行パターンが異なると、当該感染症に対するイメージやひとびとの危機意識も、それにともない変わってきます。全国的な感染症対策の舵取りが日本で困難なのは、この感染症へのイメージが定まらないことにも一因があるのです。
日本列島における天然痘略史
さて、日本列島で感染症がいかに多様な流行をするかについては、天然痘の歴史が、ひとつの興味深い事例となります。世界史のなかに多くのエピソードを刻むこの感染症は、記録によると、8世紀前半に日本列島に伝わったといわれます。流行のたびに一時に大量の死者をだす天然痘は、当初、疫病として非常に恐れられ、神仏の意向とも、国政の不調の結果とも、非業の死をとげた貴人の怨霊の仕業とも読み解かれました。しかし、遅くとも16世紀には、国内の人口密集地に常在し、周辺地域に流行を波及させるようになったようです。
数十万人の人口を擁した京都・大坂・江戸では、天然痘は、生後まもない乳幼児ばかりがかかる小児病となりました。天然痘の流行は 、(天然痘を病ませる神。「疱瘡」は天然痘の古称。)が市中をさまようイメージで捉えられました。ひとびとは、天然痘を忌避するのではなく、むしろそれに罹患することを一種の通過儀礼とみなし、軽くやすやすと済むよう祈願したのでした。
都会からやや離れた土地では、天然痘は、数年から十数年間隔で流行しました。罹患したのがおもに成人前の小児だったという点では、都会同様、天然痘は小児の病でしたが、疱瘡神は、各地を転々と流れあるく形象で捉えられました。近隣地域で疱瘡が流行しているという情報がもたらされると、ひとびとは村境や屋敷まわりにを張ったり、疱瘡けの呪物を掲げたりして、疱瘡神の来訪を拒絶しました。
離島や山間の僻地では、天然痘はほとんど流行せず、ごくまれに流行するようなことがあれば、人口や生業は甚大な被害をうけました。そのため、土地によっては習俗として、たとえ親・兄弟であっても、発症者を人里はなれた場所へと棄てたり、逆に、発症者をその場に残して逃げ去ったりすることがおこなわれました。
牛痘種痘導入の約半世紀のタイムラグ
天然痘は日本列島で、このように土地によってさまざまに経験されましたが、それに対する医療はどこにおいても、近代までは対症療法が中心でした。16世紀に大陸からつたわった「胎毒説」(身体に先天的にやどった天然痘の毒が、天をめぐる悪い気に引きだされて天然痘を発症するとする説)がひろく支持され、医師らは患者に、体力を養う薬や体内から毒を抜きさる薬を処方したのでした。
18世紀半ばに、人痘種痘が大陸から伝わりましたが普及はせず、職人芸として各地に伝承されるにとどまりました(例外は、琉球王国(現在の沖縄県)です。琉球では、18世紀末から19世紀後半まで、国家事業として、12年に一度、(現在の鹿児島県)から天然痘のを取寄せ、人痘種痘をおこないました。自然の流行が起こる前に、あらかじめ毒を体内から引きぬき、天然痘が不時に流行するのを避けたのです)。
1798年にイギリスで発表された牛痘種痘が、日本では1849年まで普及の途につかなかったのも、ながく医療の標準が、胎毒説にもとづく対症療法であったことによります。医師も患者も、生涯に一度、天然痘に罹患するのは避けられないものとみなしていました。その意味でも、天然痘と付き合う文化の成熟していた都会では、予防的に事前に毒を引きだす種痘への需要は、さほど高まりませんでした。19世紀半ばに、牛痘ワクチンの取寄せを主導したのは、天然痘の流行を制御しきれずしばしば大量の死者をだしていた地方でした。福井藩や佐賀藩が、藩の事業として牛痘ワクチンの取寄せをおこなって以降、牛痘種痘は列島各地にひろまりました。日本列島で天然痘が一様に流行していなかったからこそ、牛痘種痘は天然痘対策として着目され、導入されたの 。
【挿入図】1850年の牛痘種痘 のチラシ(著者所蔵)
日本列島での感染症対策
日本列島の天然痘の歴史をふりかえると、おなじ天然痘という感染症であっても、それがけっして統一的なイメージで把握されていなかったことがわかります。島が線形に連なり土地が山や海に細かく分断された日本では、感染症はじつに多様な仕方で流行します。流行のパターンが異なれば、それに対するイメージも、危機意識も、対処法も、規範意識も変わってきます。明治期以降、日本政府は、全国一律の強権的な感染症対策を打ち出しはじめますが、終始、扱いに苦慮したのは、この列島内の多様性でした。
今回のパンデミックに関しても、日本政府は、未知のCOVID-19 というウイルスよりも、既知のはずの日本国民に、手を焼いているようにみえます。ひとびとは各人、各地でそれぞれに異なる感染症の経験をしています。そのため、政府の要請に対する反応も、じつにまちまちです。こうした多様性=一体感の無さが、この感染症の流行の趨勢に、どのように影響するかは分かりません。しかし、日本の感染症の歴史から言えるのは、良くも悪くも、この多様性こそが、今後も日本列島での感染症対策の鍵でありつづけるだろうということです。
【参照】
H. O. ローテルムンド『疱瘡神――江戸時代の病いをめぐる民間信仰の研究』岩波書店、1995年(Rotermund H. O., Hôsôgami, ou, La petite vérole aisément: matériaux pour l’étude des épidémies dans le Japon des XVIIIe, XIXe siècles, Maisonneuve & Larose, Paris, 1991)
香西豊子(Toyoko Kozai)は、医学史・医療社会学を専門とする研究者で、京都の佛教大学(Bukkyo University)の社会学部准教授(Associate Professor)。日本における人体提供(献体・献血・臓器提供など)や衛生政策の歴史的な検証をとおして、現代日本の医療実践や生命倫理の特性を析出しようとしている.
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The Teach311 + COVID-19 Collective began in 2011 as a joint project of the Forum for the History of Science in Asia and the Society for the History of Technology Asia Network and is currently expanded in collaboration with the Max Planck Institute for the History of Science(Artifacts, Action, Knowledge) and Nanyang Technological University-Singapore.